道路元標探索サイク(その2)

水曜に続いて今度は京都府加茂町から信楽経由で滋賀県日野町へ向かい、三重県伊賀市まで南下し近鉄で輪行して帰ってくる計画、経路上には瓶原村、東和束村、湯船村、日野町、東柘植村、府中村、上野町の道路元標の存在がネット上で確認できています。
 また今日は天五さんが御池林道へ行く予定で貴生川駅9時半集合とか、ただ桜井から自走ではかなり厳しい時刻ですが、あわよくば貴生川から日野辺りまでならほぼ平坦なコースなのでご一緒できるかなと暗い内から出発します。

 桜井から上街道?奈良阪?大仏線跡と走り加茂町へ、経路周辺にはまだ丹波市町、奈良町、木津町が未収なのですが手近な場所ですし朝も早いので今回はパス、瓶原(みかのはら)村元標のある恭仁(くに)小学校へ、R163を走らぬようにとして裏道に入って少し迷ってしまいてこずります、現在元標は小学校の敷地内に移設されている様ですがどうにか撮影は可能な位置にありました、しかし学校の敷地内に立ち入るのがはばかられると云う嫌なご時世になったものです。 東和束村は旧道沿いには違いないのですがその旧道が錯綜していてうっかりすると見落としてしまいます。 湯船村は現在の県道<5>木津信楽線沿いなのですが、信楽に向かっていると死角になっていて見事に行き過ぎてしまい1キロ程引き返す事に。

FI2612538_2E.jpg湯船村元標を後にし京滋県境の無名の峠まで少し頑張って走ります、峠の標識も既に「甲賀市」です。 車を来ないので道の真ん中寄りで写真を撮っていると、背後に気配が... 咄嗟に左に寄せると、2人のローディが私をはさむように追い越して行きました(^_^;)
 ここで時刻は既に9時11分、’逆立ちしたらもっと無理’なのではっきり諦めてのんびりと日野へ向かう事とします。

FI2612538_3E.jpg長野村(大正15年町制、昭和5年信楽町に)道路元標があっただろう信楽町中心部を探索して国道307号線を水口から日野町方面へと向かいます。

←丸ポスト発見、これって売り物なんでしょうか???




FI2612538_4E.jpg信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅に立ち寄るとまもなく列車の時刻、あの正面衝突事故の慰霊碑前まで移動して写真を撮る事に。
 30数年前、信楽高原鉄道が国鉄信楽線だった頃に私が撮った写真、信楽線は加茂へと繋がる計画もあった経緯から長い間、加茂駅から国鉄近城線としてバスが走っていました、現在も和束までは奈良交通が後を引き継いで走っています。
 ここから日野町へは国道307号線一本なのですが何度も走っているし車も多いので工事中の第二名神の下をくぐり県道<53>牧甲西線へ入り未踏のアセボ峠を越えます、少し期待したのですが旧甲西町側の展望は植生に遮られて全くありません。
 三雲へ下り横田橋で野洲川を渡り旧東海道を東へ、旧柏木村と旧水口町を探索してから予定の日野町へ入ります。

FI2612538_5E.jpg近江鉄道日野駅前から旧街道へ入り平和堂で補給、以前はここの平和堂の入り口横にはマグドナルドがあったのですが... 
 旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路で予定の元標をゲットしますが、どうも雲行きが少し怪しくなってきます。
 日野町内は史跡や古い街並み、案内板やコースを整備していますが、週末のわりにはハイカーや観光客の姿はあまり見かけません、近江八幡や彦根、長浜と違いJRが通っていないですからね。 まあ私も日野と云えば’日野菜’しか思い浮かびませんが...

FI2612539_1E.jpg日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。

↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...

FI2612539_2E.jpg鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって

 土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。

FI2612539_3E.jpg加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...

←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。




FI2612539_4E.jpg府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。









FI2612539_5E.jpg伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
 しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。

本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。

道路元標探索サイク(その2 続き)

日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。

↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...


鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって

 土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。


加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...

←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。


府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。


伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
 しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。

本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。


瓶原村道路元標(京都府相楽郡)

相楽郡瓶原(みかのはら)村は昭和26年に当野村とともに加茂町に編入された、瓶原の地名はそのままでは残っていない様である、ただ幼稚園が美加ノ原と字を当てて名付けられている、確かに幼稚園に難読地名をそのまま付けるのもなんですしネ。 なおゴルフ場の「美加ノ原カンツリークラブ」は木津川をはさんだ対岸の現在の木津町と加茂町に跨った場所にある。


道路元標は恭仁(くに)小学校正門?を入ってすぐの左側に道路に面して建っているので、正面側を撮影するだけなら柵越しに見えるので困る事はない。 たまたまこの日は加茂町の行事で構内のトイレとかが開放される様なので、早朝でなければ裏面を確認する事ができたかも知れない。


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湯船村道路元標(京都府相楽郡)

相楽郡湯船村は昭和31年に和束町に編入された。


元標は県道<5>木津信楽線に面した元の小学校跡と思われる場所に建っている。


事の経緯は判らないが、何故か裏面に「木津町道路元標」とある、但し相楽郡木津町には今も木津町道路元標は存在している。


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日野町道路元標(滋賀県蒲生郡)

日野町は明治22年の町村制施行時から町であったが、昭和30年に周辺6村と合併し現在の形となった。


元標は旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路、興仙寺門前にあるが、塔頂の形状が角錐状になっていて、同じ滋賀県に現存する大津市、木之本町の省令に従った形状とは異なる。


裏面には加工された穴が... 塔頂の形状からも大正時代に建てられた道路元標そのものではなく模して再現されたものかも知れない。 滋賀県にこの形状の元標が他にあるかどうかが興味深い。


ところで旧信楽町と旧水口町で見つけた「県道路?」と記された石標、道路元標より一回りは小さいが塔頂は角錐状である。


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東柘植村道路元標(三重県阿山郡)

東柘植(つげ)村は昭和17年に柘植町となり、昭和34年に春日村と合併し伊賀町となった。 平成16年には上野市、他の阿山郡の町、名賀郡青山町と合併し伊賀市となり、阿山郡と名賀郡は消滅した。


元標は伊賀越え大和街道の三叉路に明治の里程標を模して再現した木製の標柱と並んで建っている。


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