道路元標の空白地帯

昨年秋からフトした事でマイブームになっている’道路元標蒐集’、自転車で紀伊半島の道を走り潰すのも残り僅か、奈良/和歌山/三重県中南部の県道ヘキサ蒐集も先が見えてきたので、サイクリングのツマとしてはなかなか面白いテーマなのである。 奈良県と兵庫県に関しては出版物として資料もあるし、インターネットのお陰で好事家による情報も入手可能で個人的に800基とか600基を訪ね歩いた(歩いた訳ではないだろうけど)御仁もおられる。 道路マニアにはお馴染みの’国道メーリングリスト’では1000件以上の所在リストが更新されているが、道路元標設置の根拠となった’道路法施行令’の大正8年からして、手元の資料によると大正11年には全国には12315もの市町村があったのだから1割にも満たない、まだまだ未知の’道路元標’を発掘する余地は充分にある、と云っても元標の建つ地元ではさして映えない標石は忘れられた存在で、朝な夕なに散歩の犬の絶好のターゲットになっていたりするのですが...

左図は入手できた情報を元に中部から中国四国にかけて現存する’道路元標’の位置をプロットしたものである。 まもなく設置から90年を迎え根拠となる法令が無くなってしまった’道路元標’が時とともに失われてしまっているのは致し方ないが、不可解なのはバラつきが大きすぎるのである、石川、京都、奈良、兵庫の様に相当数が平均的に残っているのに対し、富山、静岡、福井、徳島は皆無、岐阜、滋賀、大阪や和歌山、西日本には異常に少ないのである。
 理由として考えられるのは、まず’道路元標’を探そうなんて好事家が少ないので情報にバラつきがある。 現在では根拠法の無い道端の邪魔物を府県毎に道路管理者が積極的に撤去してしまった。 そもそも大正8年の’道路法施行令’により実際に設置するのは各々の地方自治体なのだが本当に全国に12000もの’道路元標’が省令に従った様式で津々浦々に至るまで設置されたのだろうか。
 とこのマップを眺めるとつくづく考えてしまうのである。 今ではあるかないかも判らない’道路元標’探しはヘキサ蒐集や丸ポスト蒐集より奥が深いと云うかハマると泥沼なのである、サイクリングの目的に自然や風景に名所旧跡も悪くはないが、昭和と平成の市町村合併に埋もれ忘れられていく近代日本の地方自治と道路網の標石である’道路元標’探索にコースを練る愉しみは当分続きそうである。


※ 図はいわゆる’大正道路元標’を対象としている、明治の里程標や大阪市や和歌山市にある今風のモニュメントとしての道路元標は含んでいない。
※ 緑色は履修済、黒色は最近まで現存していた記録があるが逸失してしまったもの。

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