72.5キロがポタかどうかはともかくとして、T御大とのんびりと走ってきました。
桜井駅南口7時に待ち合わせ、初瀬街道を東に走り長谷寺から初瀬ダム、旧都祁村へ...
←小夫を過ぎた辺り、T御大は稲刈り談義(^_^;)
?藺生?三陵墓古墳?染田?小原?上笠間?地蔵峠と走ります、今日は2匹の子イノシシに遭遇。
一旦R165の三本松へ下りコンビニ補給の後、伊勢街道(阿保越)を西へとります。
←室生口大野駅を見下ろす、ここを下りる訳では無いのですが。
古大野へのとっておきの道を走り、お馴染みの手作り展望台へ...
眼下に大野を見下ろすロケーションで食事休憩、風が吹き抜けて快適です。
食事の後は向渕から室生ダム、榛原と走り笠間辻から女寄峠を下って14時過ぎのは帰ってきました。
←室生ダム湖畔赤人橋にて、後ろに額井岳が見えます。
名刹長谷寺の門前町として栄えた初瀬町は昭和34年に桜井市に編入されました。
元標は<38>桜井都祁線、長谷寺参道にあります。
山菜おこわ饅頭の「宝園堂」の少し先です(^_^)
やはり度重なる舗装で「標」の字の半分位まで埋もれています。
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今日は上之郷村(現桜井市)と山辺郡東里村(現宇陀市)の道路元標があっただろう道を通りましたが、「道路元標を尋ねて」で既に存在を確認できていないのであっさり通過、場所がなかなか特定できない上に残っているかどうかも判らない道路元標探しは大変な作業です、ガイド本なしではとてもサイクリングの余興にできる事ではありませんわ(^_^;)
※東里村と云う名称の村は添上郡と山辺郡に存在していました、山辺郡の東里村は合併により宇陀郡となりました。
三本松村は伊勢街道(阿保越)沿いにあり旧街道の趣きを残す街並みが今も残っています、昭和30年に室生村、山辺郡東里村と合併して室生村となり、今年1月に榛原町、大宇陀町、菟田野町と合併して宇陀市となりました。
「道路元標を尋ねて」では三本松道路元標はこの場所に倒れている事になっていますが(昭和62年)、位置はともかく現在はちゃんと建っています。
ここの元標の様に塔頂がカマボコ型になったものが省令に従ったものです。
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今日は東海3県持ち回り胃袋破壊ツアーの一つ名古屋「喫茶マウンテン」探検ランだったのだが... どれ程走っていたのか食っていたのか、輪行で帰途に就いたN嬢から画像が送られてきた...
しかし手の付け様がないと云う感じですなぁ...
今日は午前中の予定が意外と早く片づいたので図書館まで往復。
「道路元標」の存在については多少は知っていたのですが、幸い奈良県下に関しては「道路元標を尋ねて -奈良県ふるさとめぐり-」(上田倖弘著 弘道社)と云う自費出版の本がでていて桜井市図書館にもあるので借りに行く事に、書庫から出して貰い涼しく快適な館内でつらつらと読んでいたら、「道路元標」は県下で残っているのは大正8年公布の「道路法」に基づき設置されたであろう154市町村(当時の)の半分に満たない69本、それも著者が古い奈良県公報記載の所在を元に歩いて探し、或る時は民家の庭先に埋もれていた様なものまで含まれているのです。
現在も利用されて真っ赤な色で目立つ「丸ポスト」ととは桁違いに貴重なものなのです、その上今では設置と維持管理に法的根拠が無く、至って邪魔で危険な道路脇に鎮座しているのです、幸い桜井市周辺は幾つも現存しているとあるので、早速その足で探索ポタに出掛ける事にしました(^_^)/
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早速、図書館からの帰り道にあるのが「桜井町道路元標」、駅南の寂れた商店街の中にあります、位置的には横大路(初瀬街道)沿い、上街道や多武峯への道が交差する処です。
少し欠けたりしていますが長年アーケードの下で場所的に風雨にさらされる事が少なかったのかはっきりと「桜井町道路元標」と読み取る事ができます。
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城島(しきしま)村は現在の桜井市、大和川より南、近鉄線より北側と云った辺りでしょうか昭和17年に当時の桜井町に編入されていますが、現在では桜井市役所や警察、消防、税務署、郵便局まで旧市街からこちら側に移っています。
道路元標は桜井町のものから上街道を北に数100m辿った処にあります。
道路元標は原則、「○×村道路元標」と彫られた面が道路側に面しているのですが、何故かここでは「奈良県」と彫られた面が正面になっていて裏向きです。
これは多少なりとも移動や建て直された証拠だそうで、確かに辻でもなんでも無い位置に建つのもやや疑問ですが、奈良県公報記載の地番とは現在地は一致しているそうです。
しかし今や裏路地と云った趣の道とは云え、非常に危険な位置に建っています、同じ桜井市域でも三輪大社や「三輪そうめん」が知られる三輪や元城下町として帰属意識の高い織田村等と違って「城島」の地名すら残っていないこの地区の「道路元標」がこのまま生き残る事ができるかは危なっかしいです。
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「そうめん」と「三輪大社」で有名な三輪、昭和30年に織田村と纏向(まきむく)村と合併し大三輪町となり昭和38年に桜井市に編入されました。
「三輪村道路元標」も基本的に上街道沿い、三輪郵便局の隣の神社の前にあります。
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織田村も大三輪町を経て昭和38年に桜井市に編入された村です。
先年話題になった箸墓古墳があります。
ここも上街道に沿った場所に在ります。
「道路元標を尋ねて」によると、「織田村道路元標」は一旦撤去され織田小学校に保存されていたものが再び本来の場所付近に再建されたそうです。
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纏向(まきむく)村も大三輪町を経て昭和38年に桜井市に編入された村です。上街道沿いJR桜井線巻向駅より少し北です。
まったくもって民家の軒先にあります。No tags for this post.