大阪府の道路元標

 さて危険を顧みず大阪のど真ん中まで来たのですから、梅新交差点の北西角に建つ「大阪市道路元標」に立ち寄ってきました、ご覧の様に(大正)道路元標の様式とは全く異なる石標と云うよりモニュメント、測量で使われた下げ振り錘を模しているのですね。明らかに(大正)道路法の下で建てられたものではないので和歌山市道路元標とともに私はコレクションにはカウントしていないのです。
 元の道路元標は中之島の現在の大阪市役所前に建っていた様で、明治の里程標は高麗橋に跡碑が残っています、まぁ大阪の道路の起終点が移動してきたと云う事ですね。このモニュメントは昭和57年に地元ライオンズクラブによって再建されました、銘板は先代のものが流用されているとの事です。
 実は先日から道路元標のデータを整理していて、従来から道路元標が建っただろう12,000余りの市町村とネット上に公開されている情報と自身の履修情報をExcelで都道府県別に、現存が確認されている、或いはされていた座標をカシミールにプロットしています。
 道路元標は「道路法施行令」が施行された大正9年(1920年)4月1日に存在した市町村に設置を義務づけられたのですが、えいゃとばかりにその4月1日に一斉に12,000本もの石標が日本の津々浦々に建てられた訳でもなく、昭和にかけてぼちぼちと建てられいた様です。
 設置場所に関しては、設置(された或いはする)場所を県報(都道府県版官報みたいなもの)で告知された様で、これが道路元標探索の大きな拠りどころになっている訳です(左は山口県報第813号 大正9年4月1日 告示第141号)。戦災で逸失したものもあるでしょうが、幾つかの都道府県のものが図書館などで閲覧複写が可能です、ただ日本の公文書管理のエエ加減を知る事になりますけど。
 ただ設置場所が判っても実際に建てられた或いは残っている訳ではないのです。あと話がややこしいのは実際に建てられるまでの間に市町村合併などの変化もあり、大正9年4月1日の時点で存在しなかった市町村や既に無くなってしまった市町村の道路元標も存在している訳です、即ち時系列での重複を考慮に入れる必要もあるのです。
 例えば山口県山口市に現存する吉敷郡の「秋穂町道路元標」ですが、大正9年当時は秋穂村、町制をひいて秋穂町となったのは20年も経った昭和15年、それまでの間に「秋穂村道路元標」と印した元標が存在していたのか、今となっては判りませんが。また京都府舞鶴市には「舞鶴市道路元標」「東舞鶴市道路元標」がともに現存していますが、東舞鶴市は昭和13年から昭和18年にかけて旧舞鶴市と合併するまで存在しただけで、あと昭和17年に東舞鶴市に編入された「東大浦村道路元標」も現存しています。まぁ所属する市町村を失った道路元標をどうするかの条文はない様ですし。
 さて現時点で全国で2,000弱の現存が確認されている(された)道路元標のうち1,110基の道路元標が履修済みなのですが、集計して行くと1つ数が合いません、それが大阪府。先の大阪市を除けば府下には「岸和田市道路元標」「熊取村道路元標」「粉浜村道路元標」の三つしか確認されていません。その大阪府には大正9年当時の設置場所を示す県報などは見つかっておらず、昭和4年から道路元標の設置義務がなくなる昭和27年の(新)道路法施行前の昭和24年にかけての大阪府告示に設置場所が記されています。ほぼ訂正や廃止を含め大方がネット上に転載公開されていますが、大正9年から昭和24年までの開きがありその間の府下での市町村の変遷はかなりの数になります、なにしろ大正14年までに当時の西成郡20町村と東成郡24町村が大阪市に編入されたのが大きいかと。
 さて数が合わなかったの粉浜村がその西成郡に属していた為ですが、自治体がそのまま残る岸和田市や、町制こそひかれたものの合併する事なく残る「熊取村」2006年に何の手ががりもなしにたまたま発見できたのはともかく、大正14年(1925年)に大阪市に編入された「粉浜村」が100年近くも現存しているのは奇跡的かと。
 お陰で非常にややこしい大阪府の市町村、大正9年に301あった府下の市町村、昭和24年には164までに統廃合されたのを、私になりにまとめる事に。四条畷駅はなぜ四条畷市でなく大東市にあるのか、1日しか存在しなかった美陵(みささぎ)市、南大阪市、狭山市とかトリビアもあるのですが、道路元標は今も時折発見される京都府に対して寂しい限り、まだどこかに埋もれていないのでしょうかね。発見を願って整理した一覧を掲げておきます。
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「コロナ禍」緊急事態宣言下の大阪へ

 今日は勤め先の「健康増進プロジェクト」の個人面談に出よとのお達しでで、コロナ禍の渦中の大阪それも梅田まで出掛ける必要があり、全く走れていない今月(今朝の時点で218.6キロ)、このままでは2014年以来の300キロ割れは確実、ならば「密」になりかねない電車より走って行こうと考えたのですが、今年も走ろうとすると天気が悪くなる巡り合わせ、昨夜からの暴風、今朝は雪もちらついて一旦は諦めたのですがネ。
 とにかく行ける処まで行こうと輪行支度も整えて出発、飛鳥川沿いの自転車道は良かったのですが、御幸橋から大和川べりに出ると案の定とんでもない向かい風、もう15km/hすら出ません。
 もとより12時半までに梅田まで走って行くのは難しかったので、大阪メトロ谷町線の長原駅まで走って駐輪場に預けるつもりだったのですが、どうやらそれでも間に合いそうにないので近鉄河内国分駅でギブアップする事に。
 久しぶりの大阪市内、人も車もいつもと変わらないです。しかし「緊急事態宣言下」の大阪に「高齢者」を交通費自己負担で呼び出す「健康増進プロジェクト」って何なんでしょね。「コロナ太り」故の数値を指導される訳ですが「ハイ、お説ごごもっとも」と云う事で、ただ目標値をクリアしないと3ヶ月毎に呼び出されるのと、「自撮り」モデルとして横からは見るに耐えなくなっているので多少の努力はね。面白かったのは健康運動指導士のお嬢さんが串本町潮岬出身だと云う事で「測候所(跡)」の前の道で盛り上りました。ところで国道1号線を見下ろすこの風景、30年近く前に少し東の並びのビルの8階に勤めていたのですよね、風景はあまり変わってないです。
 14時には開放され梅田新道交差点の北西角の大阪市道路元標に立ち寄っただけで帰途に、鶴橋経由で河内国分駅へ、スーパー地下の駐輪場は何か買い物をすればタダになると云う事なんで、懲りずに甘いものを調達します。
 帰りも同じくR25経由ですが、追い風に乗って速いの何の、国豊橋北詰から王寺駅前まで30分と掛かりませんでした。R24を跨いだ辺りから風向きが変わったのには閉口しましたが1650には無事に帰投。本日の走行59.8キロ。