「道路元標」カテゴリーアーカイブ

船城村道路元標(兵庫県氷上郡)

‘船城(ふなき)村’は’黒井町’と同様に’春日町’となった後、’丹波市’となっている。


元標は’老人福祉センターふなき荘’向かいのグラウンド奥に放置されている。


グラウンド奥に放置された道路元標


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黒田庄村道路元標(兵庫県多可郡)

‘黒田庄村’は昭和35年に町制をしき’黒田庄町’となり、平成17年10月1日に’西脇市’となった。
 元標は県道<294>黒田庄多井田線沿いの旧黒田庄町役場前に由緒を記載した銘板と並んで保存されている。


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越智岡村道路元標(奈良県高市郡)

越智岡村は現在の高取町北西部の地域、昭和29年に船倉村と共に高取町に編入されている。


元標は今は<35>橿原高取線の旧道沿いの車木駐在所近くに建っている。


「越智岡」の名は長らく農協に残っていたが、現在はこの標識以外に見当たらない。 ただ「越智」の名は字名として残っている。


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大阿太村道路元標(奈良県宇智郡)

大阿太村は明治22年の町村制施行時阿太村として成立したが同24年には大阿太村と南阿太村とに分立した。 昭和27年佐名伝地区を大淀町に編入、昭和32年に五條町を始めとして7町村と共に五條市となった。 現在では字名は「阿田」と表記されているが、小学校等に「阿太」の名が残っている。 なお宇智郡の名は昭和34年の南宇智村の五條市編入を以て消滅した。


元標は国道370号線と並行する東阿田の県道時代の旧道区間沿い、一時は倒されて民家の軒先に転がっていた様だが、今はまるで田圃の畔の土留めとも思えなくもないが建つには建っている、従って裏側の「奈良県」の文字は読めないが、裏側に府県名を入れる事は例外的だし、裏表を逆にならなかっただけ幸いかと。


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下市町道路元標(奈良県吉野郡)

下市町は明治22年に下市村として成立したが翌23年には町制、同45年には現在の近鉄吉野線の前身の吉野軽便鉄道が吉野川右岸(北岸)沿いに敷設され当時の大淀村に現在の下市口駅ができ、大峯への玄関口としての役割を奪われてしまった感がある。 昭和31年に秋野村、丹生村を編入している。


元標は国道309号線沿い札が辻バス停近く下市町商工会館前に建つが、元の位置から動かされ一時は商工会館裏に目立たず建っていたそうだが、現在は国道に面して位置に消火栓と仲良く並んでいる。 電柱と消火栓に挟まれどうやらここが安住の地になりそうである。


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飛鳥村道路元標 (奈良県高市郡)

飛鳥村は昭和31年に高市村、阪合村と合併して現在の明日香村となった。 飛鳥寺近くの三叉路に立つ。 写真正面突き当たりは飛鳥坐神社。


「飛鳥村道」より下はアスファルトに埋ってしまっている。


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高市村道路元標 (奈良県高市郡)

上田倖弘氏著「道路元標を尋ねて」では高市村道路元標は行方不明と云う事になっていたのですが、過日著者に電話を差し上げた処、出版後に著者の活動を聞いて何処からか出てきた事を教えて頂いた。 本来は岡の鳥居前に建っていたそうであるが、現在は少し東の観光会館と交番の間に鎮座している。


元の場所ではないが、恐らく奈良県の道路元標の中で最も未来永劫に安住の地を得られたのではないだろうか。


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阪合村道路元標 (奈良県高市郡)

阪合村、現在の明日香村を構成する旧村の中で馴染みのない名前だろうが、近鉄飛鳥駅や高松塚古墳、キトラ古墳は阪合村域に属している。 阪合村の中心は大字平田で、稲渕の棚田で知られる朝風峠はかつては上平田峠と呼ばれた。 また飛鳥駅はかつて橘寺駅と云う名称であった。


ところで阪合村道路元標は現在国道169号線沿いの「榎龍神」の向かって右側の門柱になっていて、阪合村の名や裏側の奈良県の文字もモルタルで埋められてしまっている。


畝傍町道路元標 (奈良県高市郡)

FI2612474_1E.jpg畝傍町は昭和3年に白橿村が町制をひいて名称が変更されたものである。 従って大正の「道路法」が生きていた頃だから「畝傍町道路元標」が建てられたのだろうが、「白橿村道路元標」は現存しないのは当然なのかも知れない。 「道路元標を尋ねて」の著者上田倖弘氏の活動で現在の橿原神宮駅前に「畝傍町道路元標」が再び建つ事になったのだが...

FI2612474_2E.jpg現在は植え込みにすっぽりと覆い隠されてしまっている、元標は北側を向いているとの事であるが、西側から存在を確認できるだけで他の面は全く読めない。






FI2612474_3E.jpg戦前の橿原神宮造営で畝傍町周辺は大きく変化している、鉄道マニアには知られた話だが大規模に駅の移転や線路の付け替えも行われ、集落の集団移転などもあった。 地元のT御大には今では神域と思われている畝傍山周辺はここでは書けない様な話を聞かして貰った。



FI2612474_4E.jpg橿原神宮前の植え込みの中に放置されている謎の「橿原道路元標」、「橿原市」ではなくただの「橿原」である。 なお橿原市は昭和31年に2町4村が合併して成立している(その後2村が編入)

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「道路元標」を尋ねて ?道路元標探索ポタ?

今日も用事が午前中に片づいてしまったので、昼から「道路元標探索ポタ」に出掛ける事に、ほんの1?2週間前までなら昼から自転車で出掛けようなんて考えもしなかったのですが、風もあって随分過ごしやすくなったものです(^_^)
 しかしガイド本があると云うのは気楽で便利なものです、あるかないか判らない県道ヘキサを探して県道を起点から終点まで走って無かった時の事を思うと...

まずは横大路(初瀬街道)を西へ走り、八木町、今井町、真菅村、金橋村、高田町とゲットし次の磐園(いわぞの)村へ向かいますが、目標の春日神社前の商店が無く駐車場になって元標もありません。 近くの日影で話し込んでいる3人の年配の人達に尋ねると親切に答えてくれて、「確かに道路元標は建っていたけど、そう云えば無くなっているなぁ...」と。 道路元標を取り巻く状況は厳しい事を目のあたりにします、同じ大和高田市でも文化財扱いの「高田町道路元標」とは大違い、しかし何処へ持って行かれたのでしょう?


気を取り直して馬見村を目指し北へ走りますが、「道路元標を尋ねて」記載の場所がなかなか特定できません、ようやく掲載されている写真と同じ場所へたどり着きますが、馬見村道路元標は既に昭和63年の時点で破損した状態で放置されていたとなっており、案の定今ではどこにも見当たりません。


←三宅村から都村へはかつて飛鳥と斑鳩を結んだ筋違道(太子道)を走りますが、今では頭上を京奈和道が走ります。
 この後河合村、三宅村、都村、田原本町、多村と順調にゲットでき、畝傍町、阪合村、飛鳥村へと南下しようかとも思いましたが、そろそろ陽も傾いてきたのでおとなしく帰途に就く事に(^_^) 本日の走行42.7キロ也



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