ついでと云うか物欲に負けてコッフェルを1個買ってしまった(^_^;)
一応どうにかレトルトが戻せそうな深いタイプ、ご飯を炊いたりするのが難しいのでチタン製ではなく、アルミ+テフロンのものにした。
中に手持ちの一回り小さいチタン製のものを組み合わせ使うそもり。
10年以上使っている馬鹿でかくボコボコになったコッフェルを引退させる事ができるだろうか...
大阪へ出たついでに懸案のマットを新調してきました。
(写真右)
最初、昔あったエアーだけのものを物色したのですが、最近は見当たらない様ですね、確かに納得もできるけど。
で半身用ですが最もコンパクトなものにしました。
MAGIC MOUTAIN トレッキングマット 90×51×2 好日山荘にて税込み\4,452_ で膨らましてみるとダンロップ程の弾力性はありませんね。
しかしマットで1万5千円近いものがあるのですね、手も足も舌もでません。
写真左は圧縮されないタイプ、ほぼ銀マットと同じかより太いです、クララ姫が担いでいたもののと同じですね。
写真中は今迄常用しているダンロップのもの、一応自分で広がります、目が回る程エアーを吹き込んでやるとなかなか快適です。
24日自走となると天気が少し怪しくなってきたなぁ...
野球中継のあとダラダラとテレビを見ていたらタモリの「世にも奇妙な物語り/秋の特別編」、内容はともかくとしてその中の一作「過去からの日記」のタイトルに惹かれてしまった。
はてDoBlogはどれ位過去に遡って書きこみができるのだろうか? で試してみた。
1953年12月3日、私の生まれた日であるがちゃんと書き込む事はできる。
ただ左側のペインのカレンダー欄には2002年以前は表示されません。
2003年をクリックすると2003年以前の全てが表示されてしまう様です、←お試しあれ。
OSやDBがサポートする日付範囲を越えてまで試してみようと云う気はないが。
しかしなかなか面白いので折を見て、私の自慢にもならない50年余りの人生を埋めてみるのも面白いかも知れない。
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デ・キリコの絵画をサーチしてきて壁紙にしてみた。
日頃リアルなカラーばかり目にしていると絵画の落ち着いた色合いが新鮮である。
30年程前に鎌倉の近代美術館で「デ・キリコ展」を見る機会があったが、そう云えば美術館なんて長い事行っていない、サーチしている途中で4年程前に関西では京都であった事を知った、生きているうちにもう一度見てみたいなぁ。
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今年は本当に例年より早いです。
この畔は昔、祖父の牽く肥え桶満載のリヤカーを押した思い出のある道です。
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矢の川(やのこ)峠は三重県尾鷲市と熊野市の境をなす海抜807mの峠で、現在の国道42号線の矢の川トンネルのほぼ真上に位置していて、矢の川トンネルと大又トンネル開通までは国道として、また昭和34年7月15日の国鉄紀勢本線全通までは国鉄バスの通うルートであった。
紀伊半島の殆どの道(さすがに市街地は除いて)と峠を自転車で走ってきた私にも「矢の川峠」だけは長年の懸案であった。
奈良に住んでいるとは云え尾鷲と云うアプローチの遠さと、かつての国道とは云え熊野市側で橋が落ち廃道化してしまっている情報に躊躇せざる得なかった。
近年入手した尾鷲市の有志の方々の編纂による写真随筆集「思い出の尾鷲」に掲載された1枚の写真に、いつかは「矢の川峠」へとの想いだけはつのっていた。
世界遺産登録で脚光を浴びている熊野だが、尾鷲から熊野市にかけて海寄りの幾つかの峠を越えている熊野古道より、私にとってはこの近代の峠道の方が興味深い。
ところが自転車ツーリング仲間の情報では、旧道となった後も何組が峠を越えていると云う話もあり、最近時々ご一緒する機会のある三重県在のakuta氏も1971年に越えているとの事であった。
話の折に「ぜひ矢の川峠に行きましょう、できれば峠でキャンプを…」、この物好き極まりないプランが急遽実現する運びとなった、それも来週9月24?25日である。
水の補給もできるかどうか判らない峠でのキャンプ、熊野市側へ越えるとすれば担ぎも考慮しなければならない、しかしまるで私のために用意してくれた様なこのプラン、この機会を逃すと二度とは巡って来ないだろう話を断る訳には行かない。
←昭和30年当時、国鉄バスの停まる矢の川峠、当時は茶屋もあり尾鷲湾から熊野灘を望む展望に10分程停車したそうである。
写真は平成9年に「思い出の尾鷲」出版委員会により出版された写真随想集「思い出の尾鷲」から転載、、尾鷲市役所へ問い合わせれば現在でも入手可能かも知れない。
かつて陸の孤島とよばれた尾鷲の戦前戦後を知る興味深い資料である。
峠の北側にはNHKのテレビ中継施設があるために尾鷲側の道路状態は左程の事はないだろうが、熊野市側に至ってはかなりの難路となる事は見えている、とにかく最小限のキャンプ装備と担げる様な支度で出掛けなければならない。
まして往復輪行はあまりに勿体ないので往路は前日に桜井から尾鷲まで自走し尾鷲泊を企んでいる。
しかし峠は現在も広場状にはなっているそうであるが、果たして展望はあるのだろうか。
植林され展望は効かなくなってしまっているかも知れないが、先の写真の撮影方向も気になってカシミールでシュミレーションしてみた。
矢の川峠からほぼ北北東に28mmの画角で描画しているが、確かに写真と合致し尾鷲湾から須賀利の日和山、その向こうに志摩半島へと続く熊野灘に面した海岸線が望めるし、八鬼山の向こうにも熊野灘が-ほぼ真南側まで望める様である。
こうなってくると色々と欲が出てくる、富士山はもとより折角の峠のキャンプであるから日の出や熊野灘に映える月明かりなど拝めないかと… 調べてみると24日15時33分に月の出方位128゜、正中が20時34分で高度が32゜、月の入は25日1時40分方位243゜、月齢は10.5だから満月とは云えないが真っ暗な山中では結構明るいはずである。
ちなみに日の出は25日5時40分である。
なお月の出等データは
「こよみのページ」によった。
後は天気になる事を望むだけである。
橿原市、桜井市他の奈良県中和地域の合併の枠組みに反旗を翻した明日香村が行革の一環として、と云うよりマジに中央の言いなりにはならないぞとばかりに、村議会で助役職他の廃止を議決したそうである。
この様な例は明日香村に始まった事でもなく3例目との事であるが。
「飴と鞭の平成の大合併」色々な処で筋書き通りに行かなくなってきている様である。
明日香村の場合は知名度や地元意識、なによりも観光資源に恵まれていると云う事もあるのだが...
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朝から客先に12時間近く詰めて、遅く帰ってきて明日走りに行く段取りをして、明朝0542発の始発で輪行、で勿論月曜は客先と、世間人並みの忙しさ。
飲んだり、持って帰ったりする人はいないと思うけど….
何だか?
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走行112.6キロ、100キロ越えは7月25日以来だから久しぶりに走った云う感じ、しかし最初の初瀬ダムまで登りは30分少々と快調だったが、?都祁村?室生村上笠間?地蔵峠?三本松駅?赤目と走るが調子が出ない処か、曽爾村へ向かう頃には椿井峠への登りではヘロヘロ、どうにか曽爾村掛から御杖村と走り名張川沿いに下り、桔梗ヶ丘駅から輪行で帰途に就いた。
7?8月の不摂生が祟っている様です。
途中で石を踏んでパンク、サイドも少し切れてしまい裏からゴム板を充てて補修。
↑県道上笠間三本松停車場線の地蔵峠を下った辺りから見下ろす。