気候もサイクリング向きに良くなってきたものの、ここ2?3週間程雑事に追われて乗れずにいたのですが、連休最後の日午後だけですが少し走ってきました。
と云っても何の計画もしていなかったので、とにかく課題の「道路元標」蒐集で高取町?五條市阿田と走り、大阿太村道路元標を探していたらたまたま元の同僚(上司?)の家の前に、折角だからと尋ねてみると稲刈りも昨日終えたとの事でのんびりと過ごされている様なので上がり込んだら昔話に花が咲いて話し込んでしまいました(^_^;)
久しぶりなので記念写真を奥様に撮って頂いたのですが、少しピンボケだったようで(^_^;) どうもDIMAGE A1は慣れない人には使いにくい様です。
大阿太村ですっかり遅くなっていまい、このまま帰途に就いてもエエ加減な時間なのですが、秋野村位まではゲットしておかなくては次回の計画が大回りになってしまうので下市町から秋野村と廻り、秋野隧道から椿橋と走ります。
←椿橋で吉野川を渡る頃には夕日が...
椿橋を渡り定番の壷阪峠を目指しますが、8月にイノシシに遭遇したばかりなので少し躊躇したものの芋峠や鹿路峠を越えるのも...と考えて結局は壷阪峠へ。
←無事壷阪峠と越えると、二上山が...
高取の街並みに下った頃にはすっかり真っ暗に、未収の「高取町道路元標」は先月に続いて取りこぼしていまいました。
本日の走行73.7キロ。
越智岡村は現在の高取町北西部の地域、昭和29年に船倉村と共に高取町に編入されている。
元標は今は<35>橿原高取線の旧道沿いの車木駐在所近くに建っている。
「越智岡」の名は長らく農協に残っていたが、現在はこの標識以外に見当たらない。
ただ「越智」の名は字名として残っている。
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大阿太村は明治22年の町村制施行時阿太村として成立したが同24年には大阿太村と南阿太村とに分立した。
昭和27年佐名伝地区を大淀町に編入、昭和32年に五條町を始めとして7町村と共に五條市となった。
現在では字名は「阿田」と表記されているが、小学校等に「阿太」の名が残っている。
なお宇智郡の名は昭和34年の南宇智村の五條市編入を以て消滅した。
元標は国道370号線と並行する東阿田の県道時代の旧道区間沿い、一時は倒されて民家の軒先に転がっていた様だが、今はまるで田圃の畔の土留めとも思えなくもないが建つには建っている、従って裏側の「奈良県」の文字は読めないが、裏側に府県名を入れる事は例外的だし、裏表を逆にならなかっただけ幸いかと。
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下市町は明治22年に下市村として成立したが翌23年には町制、同45年には現在の近鉄吉野線の前身の吉野軽便鉄道が吉野川右岸(北岸)沿いに敷設され当時の大淀村に現在の下市口駅ができ、大峯への玄関口としての役割を奪われてしまった感がある。
昭和31年に秋野村、丹生村を編入している。
元標は国道309号線沿い札が辻バス停近く下市町商工会館前に建つが、元の位置から動かされ一時は商工会館裏に目立たず建っていたそうだが、現在は国道に面して位置に消火栓と仲良く並んでいる。
電柱と消火栓に挟まれどうやらここが安住の地になりそうである。
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