道路元標漁りも楽じゃない(^_^;)
しかし自転車ってのは道路元標探索には最も相応しい足だと思いますネ、地域によっては街中で小回りが効いて輪行のしやすいミニベロが1台欲しいのだけどネ。
現在、63本?、年内には100本を達成したいのだけど。
水曜に続いて今度は京都府加茂町から信楽経由で滋賀県日野町へ向かい、三重県伊賀市まで南下し近鉄で輪行して帰ってくる計画、経路上には瓶原村、東和束村、湯船村、日野町、東柘植村、府中村、上野町の道路元標の存在がネット上で確認できています。
また今日は天五さんが御池林道へ行く予定で貴生川駅9時半集合とか、ただ桜井から自走ではかなり厳しい時刻ですが、あわよくば貴生川から日野辺りまでならほぼ平坦なコースなのでご一緒できるかなと暗い内から出発します。
桜井から上街道?奈良阪?大仏線跡と走り加茂町へ、経路周辺にはまだ丹波市町、奈良町、木津町が未収なのですが手近な場所ですし朝も早いので今回はパス、瓶原(みかのはら)村元標のある恭仁(くに)小学校へ、R163を走らぬようにとして裏道に入って少し迷ってしまいてこずります、現在元標は小学校の敷地内に移設されている様ですがどうにか撮影は可能な位置にありました、しかし学校の敷地内に立ち入るのがはばかられると云う嫌なご時世になったものです。
東和束村は旧道沿いには違いないのですがその旧道が錯綜していてうっかりすると見落としてしまいます。
湯船村は現在の県道<5>木津信楽線沿いなのですが、信楽に向かっていると死角になっていて見事に行き過ぎてしまい1キロ程引き返す事に。
湯船村元標を後にし京滋県境の無名の峠まで少し頑張って走ります、峠の標識も既に「甲賀市」です。
車を来ないので道の真ん中寄りで写真を撮っていると、背後に気配が... 咄嗟に左に寄せると、2人のローディが私をはさむように追い越して行きました(^_^;)
ここで時刻は既に9時11分、’逆立ちしたらもっと無理’なのではっきり諦めてのんびりと日野へ向かう事とします。
長野村(大正15年町制、昭和5年信楽町に)道路元標があっただろう信楽町中心部を探索して国道307号線を水口から日野町方面へと向かいます。
←丸ポスト発見、これって売り物なんでしょうか???
信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅に立ち寄るとまもなく列車の時刻、あの正面衝突事故の慰霊碑前まで移動して写真を撮る事に。
30数年前、信楽高原鉄道が国鉄信楽線だった頃に私が撮った写真、信楽線は加茂へと繋がる計画もあった経緯から長い間、加茂駅から国鉄近城線としてバスが走っていました、現在も和束までは奈良交通が後を引き継いで走っています。
ここから日野町へは国道307号線一本なのですが何度も走っているし車も多いので工事中の第二名神の下をくぐり県道<53>牧甲西線へ入り未踏のアセボ峠を越えます、少し期待したのですが旧甲西町側の展望は植生に遮られて全くありません。
三雲へ下り横田橋で野洲川を渡り旧東海道を東へ、旧柏木村と旧水口町を探索してから予定の日野町へ入ります。
近江鉄道日野駅前から旧街道へ入り平和堂で補給、以前はここの平和堂の入り口横にはマグドナルドがあったのですが...
旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路で予定の元標をゲットしますが、どうも雲行きが少し怪しくなってきます。
日野町内は史跡や古い街並み、案内板やコースを整備していますが、週末のわりにはハイカーや観光客の姿はあまり見かけません、近江八幡や彦根、長浜と違いJRが通っていないですからね。
まあ私も日野と云えば’日野菜’しか思い浮かびませんが...
日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。
音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。
↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...
鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって
土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。
とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。
加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...
←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。
府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。
伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。
本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。
日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。
↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...
鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって
土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。
加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...
←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。
府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。
伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。
本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。
今回は未知の道路元標を求めてR166を高見越で松阪方面まで走ろうと企て、色々と下調べをして出掛けてきました... もちろん不発に終わる可能性もあるので若干ヘキサ蒐集や旧街道や峠漁りもプランに盛り込んでいますが(^_^;)
朝東の空が明るくなりかける頃に桜井を出発、と云っても夏至の頃と比べると1時間以上は遅くなり、最初の難関西峠も車が多くなってくるのが憂鬱です、従って伊勢方面へ足を伸ばすのはどうしても5月6月に偏ってしまうのですネ。
西峠を5時半、菟田野松井橋のローソンを7時、宇賀志村と高見村の道路元標をゲットしてから、今日は気分を変えて旧木津(こつ)トンネルまで余分に登り、高見登山口のバス停前で大休憩して高見トンネルを目指し、トンネルを抜けたのは丁度9時、「平成の大合併」と云う愚行で高見トンネルを抜けると今や三重県松阪市、高見越えを下った最初の旧行政村は「波瀬(はぜ)村」です、新しいR166が村を貫いていて今では郵便局やJA等の施設も新道沿いにあり、旧い集落も少し判りにくい位置関係になっています。
さて「道路元標」ですがネット上で公開されている「大正9年4月1日三重県告示第151号」の写しによると「波瀬村 大字波瀬字町182 小学校前」となっていて尋ねてみると、国道166号沿いにある現在の波瀬町小学校は元の中学校で、元は集落の奥まった処に小学校があったとの事、 小学校跡はすぐ見つかりましたが肝心の元標は見当たりません、ただ小学校から少し下り旧街道が直角に折れる十字路に写真の「里程標」とおぼしき立派な石柱が建っています。
この「里程標」は石製の大きなもので各面に「距津市元標七拾五粁四九壹」「距松阪元標五拾六粁八〇〇」「奈良県界六粁壹〇九」「距川俣村大字七日市拾三粁〇九〇」「昭和三年三月 三重県」とあり「波瀬村」とはありません。
もちろん大正道路法による「道路元標」とは異なる様式ですが、明治時代の「里程標」にしては「昭和三年三月 三重県」は腑に落ちません。
波瀬村の旧い街並み、現在の国道からはちょっと想像できない街並みです、他所者や車も入ってくる事もなく、丸ポストも残っていてタバコの自販機と宅急便の幟が無ければタイムスリップしてしまった様な感覚です。
国道166号線を東にとり、森村元標の所在を示す「大字森字不殿1-6 辻堂橋東詰」を郵便局で尋ねるとその橋は今では蓮ダムの底に沈んてしまったそうです(現在の辻堂橋)。
川俣村元標の「大字栗野字池ノ添田156-2 役場前」は現在の松阪市役所出張所の向かいとの事で出張所でも尋ねてみますが見つける事はできず、出張所の西隣の食堂のご主人が戦後川俣村役場に勤められていたとの事で訊ねて貰いますが元標には記憶がない様でした。
川俣村域を後にして赤桶(あこう)から未踏の和歌山街道珍布(めずらし)峠へのコースをとります、櫛田川は南側へ蛇行し険しい渓谷となっているためにショートカットでもないのですが旧街道は山越えとなっている様です。
写真の様な雰囲気の良い道が続き、幾つか旧跡の案内板もあり、一応は舗装路なので自転車にはお勧めのルートです。
↑ガードレールも電柱もありません、こんな素晴らしい道がまだ残っているのは感激ものです、欲を云えば櫛田川の流れが少し見えにくいのが残念です。
珍布(めずらし)峠、深い切り通しが印象的です。
なお峠を東に越えると花岡神社の裏に出て国道166号沿いの道の駅「飯高」のやや東側に出てしまいますので注意。
旧飯高町を構成した4村、最後は宮前村で「大字宮前字宮東655 花岡神社前」とあり、珍布峠を下った処がその花岡神社です。
旧街道らしき道筋の北側に花岡神社(写真左)、真向かいの民家の庭先に案内板が立っています。
(写真右)
「宮前村元標跡」と記され、内容はここに30cm角4m程の角柱が建っていて、正面に「宮前村元標」、側面には松阪、津、山田(伊勢)、吉野、高野への距離が記されていたとあります。
寸法的には波瀬村のそれと同じ様なのですが、「宮前村元標」と記されていたとは...些か不可解にになってくる。
花岡神社で丁度12時、しかし現行の道路を走っていれば見つかる県道ヘキサと違い、尋ね歩かなければならない元標探しは時間が掛かるし、見つからないとすっかり意気消沈してしまいます。
計画では宮川左岸(北岸)まで南下してから伊勢街道を中川辺りまで北上するつもりでしたが、とてもそんな時間の余裕はないので一路東へと向かう事にします。
旧飯高町を後にし櫛田川の写真を撮ったりしながら旧飯南町域へ、柿野村は情報不足ですが旧街道をゆっくりと流します、「大字小片野字欠ノ山2390 石境橋東詰」とある大石村は交番で尋ね親切に色々と調べて貰ったが場所すら特定できなかった。
続く茅広江(ちひろえ)村は伊勢本街道の津留の渡しがあった場所で「大字茅原字小川44-1 郡道 楠木橋北詰」とある、楠木橋はすぐに見つかったがそんなに古いものではなく、それも掛け替え工事中かして隣に仮設橋が架かっている、北詰の民家で尋ねてみると、らしきものが集会所にあるとやらで案内して貰う、確かに昔の楠木橋の欄干や古い道標が並べて保存されていたが、「道路元標」や「里程標」とおぼしきものはなかった。
三重県下で大正道路法での様式に従った「道路元標」は少なくとも都合5基存在しているらしい事をネット上で確認していますが、その一つががこの津田村道路元標です。
伊勢本街道沿いに建っていますが「里程標」が立つ様な位置ではありません。
相可町ではこの様な「道標広場」なるものがありましたがいずれも明治期までのものでした。
その後射和村、斎宮村、明星村と日没まで探索しましたが見つけられず、暗くなった伊勢街道をすごすごと松阪まで北上し輪行で帰途に就きました。
本日の収穫、元標(奈良県×2、三重県×1)、丸ポスト×1、県道ヘキサ×7、峠×1、走行141.5キロでした。
大黒屋さんの主催で14?15日に小野市鴨池でのキャンプに参加がてら、往路は篠山市古市から道路元標蒐集を兼ねて100キロ近くを走る事にしたのですが... 桜井線~関西線~学研都市線と乗り継ぎ長尾駅でNちゃんと合流、JR福知山線篠山口駅の2つ手前の古市駅まで輪行します。
旧街道の街並みが残る古市ですが、JRの駅は雰囲気も愛想もない無人駅です。
古市村、城南村、八上村、畑村と順調に道路元標をGETして、一昨年のS翁の「篠山ミステリー?峠ツアー」で入れなかった某そば屋へ開店前の10時40分には到着、11時に順番待ちの番号札6番を貰って注文してようやく中に入れたのは11時半(^_^;)
席は囲炉裏のそばの一番良さそうな席でしたが...
正直云ってエエ加減な私の味覚ですが、それ程のものとは... 甘党なので時間があれば「そばがきぜんざい」なんぞを戴いて見たかったのですが。 店を出たのは12時15分、ここで1時間半の時間のロスは大きいです。 キャンプへは何か一品と云う事なので、城北村道路元標をGETとしてから篠山市街へ入り「黒豆パン」を買います、なんとここのお店は「黒豆パン」だけしか売ってません。
篠山市街を離れ’岡野村’なる怪しげな名に’南河内村’、’大山村’の道路元標をGETして<97>丹南三和線を走り栗柄峠へ、谷中分水界としては標高が100mに満たない’水分れ’の方が有名ですが、絵に描いたような片峠の栗柄峠の方がずっと面白いです。
<97>丹南三和線から栗柄峠に向かって<69>春日栗柄線にはいると黒豆枝豆を選果している作業場で直売していたのでGET、枝のついたものは1kg\650、鞘のものは1kg\700でした。
夜キャンプでゆがいて戴きましたが実も大きく味も良くて好評で、バックの中で押しつぶされかけていた折角の「黒豆パン」は影が薄くなってしまいました。 栗柄峠を下る(登りはありません)と日本海側の由良川水系に一度入って氷上郡の’黒井村’と’船城村’の元標をGETして日本一低い中央分水界の’水分れ’へ、
←雫が左右に別れるってモニュメントですネ。
この後標高の一番低い地点を探していたら道を誤ってR175ではなくR176を柏原方面へ走ってしまい<290>稲畑柏原線の小さな峠を越えてショートカットする事に...加古川河畔は基本的にR175ですが、交通量の少ない対岸の県道や旧道区間を選んで走ります。 旧氷上町の錦橋から佐野橋と僅かな距離ですがこんな道もあります、このまま続いていれば最高なんですがネ。
‘黒田庄村’の元標をGETして’日本へそ公園’へ、時間が押しているので北緯35度東経135度の標柱へは行きませんでしたが、今日の予定は一応これで全て消化、しかしもう少しのんびりと走りたかったです。
←今年春に電化されたJR加古川線の’日本へそ公園’駅、比延駅と黒田庄駅の間にできた新駅です。 西脇市域を南下し5時過ぎにはいよいよ日没です。 旧社町域(加東市)でNちゃんが今日12個目の道路元標を発見、今日予定していた11個以外の収穫です。 だいたいが事前に判っていなかった場所で元標を見つけた事は私もありません。 たった1日で彼女は立派な道路元標ハンターになってしまいました(^_^;)
キャンプ場近くまで辿り着いたのは6時過ぎ、キャンプ参加の大黒屋さんとA氏にNちゃんを輪行で帰途に就く加古川駅まで送って貰う事になり、私は何故か自転車で117国をまわって世界一周をしたM氏の車の先導で真っ暗な山道をキャンプ場まで登って今日のサイクを終えました(^_^;) 走行112.1キロ、AVS21.1キロ也。
JR和歌山線五条駅0516発の始発に乗車するために3時過ぎから走り出します、天王寺経由より紀勢線の1本早いスジに乗ることができます。
ところで今日は未明に月食との事なので、月を見上げながら走っていたのですがよく判りませんでした、五条駅まで走行26.1キロ。
和歌山駅0653発の紀伊田辺行きに乗り換え。
和歌山始発で平日でも比較的空いていて、117系だったので置き場所を確保しやすいです。
一昨日からの豪雨で日高町から御坊市にかけて冠水などの被害がでているので、計画より少し先の稲原駅まで輪行します。
稲原から<28>印南原印南線を南下、<204>印南停車場線のヘキサを探索しますが見つからず、R42を切目に向かいます。
印南町切目から未踏の榎木峠を越えます、切目からみなべ町へはR42は海岸沿いの切目崎をまわりますが、榎木峠は熊野古道中山王子のやや南側を越える黒線道です。
舗装はされていますがかなり痛んでいます、峠への途中で黒い犬を乗せた軽トラに抜かされますが、その後暫くして峠の行く手で犬の鳴き声が続くので怪訝の思って峠を越えると…
罠にかかったイノシシに若い犬を仕掛けさせてトレーニング中です。
一部始終を見学させて貰いましたが、その後イノシシは’処分’される事に…
<201>南部停車場線のヘキサをゲットして、<35>上富田南部線灰阪峠で田辺市へ入りますが、同線はみなべICまで開通している阪和道につながっていて交通量が多くて最悪。
一旦田辺市街に入ってから<29>田辺龍神線→<209>長野上秋津線→<218>平瀬上三栖線→<205>上野岩田線と未踏区間を継いで田辺市の山間部を走って上富田町へ入り 再び田辺市街へ戻ります。
← 標高が300m前後の田辺市上野地区からは遥かに白浜から田辺湾にかけての海を見下ろす事ができます。
しかし今日は日差しが痛いくらいにカンカン照りになったり、今にも降り出しそうになったりと不安定な天気で、暑さがぶり返したと云う以上にとにかく蒸せましたわ
本日の走行実績、DST102.3 AVS15.1 MXS43.2 T06:46:12
轍 Ver1.3 によるコースマップ